私はいかにしてギター修理屋の親爺になったか その5

その4まで終わったのになかなかギターと出会わないですね。
ギターと出会う前に当然「音楽」との出会いがある訳でしてその辺を少し。

最初に住んだ家は花輪という船橋では割合上品な住宅街にありまして、閑静というか、まあのどかな所でした。
そこでは幼稚園に上がる前くらいまで住んでいたのかな。
ここでの「音」に関する記憶はほとんどないです。
次いで同じ船橋市内の大神宮下の祖父の家に引っ越した。
引っ越しの時にトラックの荷台に荷物と一緒に乗せてもらってどきどきしたのを憶えてます。
この家は当時の船橋で繁華だったエリアに割合近くて飲食店や映画館なんかも近くにありまして、自分が成長したというのもありますがここで初めて自分史の中で音の記憶のある時代に突入するわけです。
今は駅を中心にデパート/スーパーが沢山建って買い物客を引きつけているのでその辺が商業の中心部と言えますが、昭和30年代当時は今とは大分様子が違ってました。
船橋大神宮の交差点から西へ伸びる「本町通り」というのがあって、そこが昔の船橋のメインストリート、大きなお店が軒を連ねていますがその裏に平行して通る商店街、特に「いなばや」さんという総菜屋さん(昔風に言うと煮豆屋)がある辺りが庶民生活の中心地でして、いつも夕方になると買い物客でごった返していました。
「いなばや」の並びには八百屋/魚屋/肉屋/天ぷら屋/豆や卵を売る店/写真屋/うどん玉屋/豆腐屋/寿司屋/瀬戸物屋/模型屋/駄菓子屋があって、近くには蕎麦屋/パン屋/和菓子屋/花屋/床屋/文房具屋/目医者に風呂屋に刃物の研ぎ屋に燃料店、うーん、こう羅列すると色んな店があってすごいですね。
現代みたいにデパート/スーパー/ショッピングモールで用が足りてしまうというのは便利だけど何か寂しい事のような気がします。
街の活気は確実になくなってる訳でして、どっちがいいんでしょうね…
で、「いなばや」通りの東の入り口には映画館があって、そこで「ゴジラ」か「モスラ」を観ました(どちらだったかもう憶えてない…)
自分的には何か陰惨な感じのする怪獣映画より「わんわん忠臣蔵」とか「白蛇伝」みたいなアニメの方が好きだったな。(今調べたら「白蛇伝」は1958年の作品なので再放映を観たんでしょうね)
(途切れながらだらだらとつづく のでしょう)
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私はいかにしてギター修理屋の親爺になったか その4

私が生まれた1956年(昭和31年)というのは、今考えれば戦後11年しか経ってないわけでして、日本中の人が大変な思いをしてやっとホッと一息ついた、ぐらいの感じの世の中だった…
んですかね?よくわかりませんが。
なにしろ子供だったので(当たり前か)
ただ年下の人と話していて感じるのは昭和40年以前と以降の生まれでは、知ってる「世の中」が全然違うな、という事です。
40年以降の生まれの人は物質的にはほぼ現在と同じような社会に生まれてるので、現在の便利な世の中が当たり前と思ってるんじゃないでしょうか。
まあ、あくまで勘ですけど。

では30年代前半の千葉県船橋市はどんなだったでしょう。
思い出すと色々浮かんできます。
未舗装で雨が降ると水たまりだらけになる道路、あらゆるところにドブ川、ドブ川にはイトミミズ、夏にはヤブ蚊や金バエ銀バエが飛んで嫌だったけど、代わりと言っちゃなんだがカブト虫もオオクワガタもオニヤンマも飛んで来て子供には嬉しかった。
総武線にはまだ蒸気機関車が走っていて、その音と煙の迫力は凄いもんだったです。
線路の北側は大体田んぼでメダカすくいやドジョウを取りに行きました。
今の子は学校にゲーム機を持って来て怒られるが、昔の悪友共はポケットに動物を入れて持って来るのだった。
モグラ/コウモリ/雀の子/カエルにオケラに玉虫…。
アリジゴクを砂の入った缶に入れて持って来た奴はヒーローになりましたね。レアですから。
車はすぐ「エンスト」して路上でボンネット開けてるし、菱形のガラスで出来たバスの方向指示器はガチャンと跳ね上がり、ハンバーガーも自販機ももちろんコンビニもなく、米屋で売ってるプラッシーは夢の飲み物、バヤリースだって憧れだ。
朝は牛乳屋がビンをガチャガチャさせながら自転車で走り、夕方は真鍮のラッパを吹きながら豆腐屋が通る。 ラーメン30円、あんこ玉が10円だったか?
発売されたばかりの「少年サンデー」の表紙はいつも巨人軍の長嶋や横綱大鵬だった気がする。
駅前にはゴザを敷いて土下座している傷痍軍人、民家の壁は板塀か生け垣で水は井戸、便所は汲取り、冷蔵庫はなく風呂は薪で炊く、隣の家にテレビという物がやってきた時は家族で見に行った。
後に我が家にもテレビは来たが相当長い間白黒だったですね。
電話は一家に一台、黒いやつが玄関のところに白いレースを敷いた上に鎮座していたなあ。
子供の遊びは泥んこ遊びに虫取り、三角ベース、ベーゴマ、メンコ、縄跳び、缶蹴り、かくれんぼ、ゲームと言ったって小学校高学年になってから野球盤を買ってもらったくらいかな?
模型工作も良くやった。
竹ヒゴで翼を作ってゴムを巻いて飛ばす飛行機とか、糸車を作ったりとか、プラモデルも作ったな。 男の子は大抵ナイフの1本は持ってました。
そもそも鉛筆はナイフで削るものだったしね。
だから手で何か工夫して作ったり加工したりということはしょっちゅうしていました。
それが後年の職業に繋がった…か、はわかりませんが。
そんな時代。
若い人は漫画「三丁目の夕日」(でしたっけ?)を読んでもらえば大体雰囲気わかるかな?
ああ、なかなか本題に入らない。
年寄りの昔話は延々と続きますよ。

「私はいかにしてギター修理屋の親爺になったか」その2

記憶の中で最初に住んだ家は船橋市の花輪にある一戸建ての家でした。
自分の人生の中の一番古い記憶は恐らく3歳ころ、その家から兄に連れられて近くの谷にススキを採りに行ったことですね。
この「谷」というのが妙だと思うでしょうが、本当に深いV字の谷があったんです。
現在の船取線、花輪インターから北上して京成線を越えてから中野木交差点までの間の左手に道路より少し低い住宅地がありますよね?
そこが昔は深い谷間で何にもなくて一面のススキの野原だったんです。
船橋みたいな平地になんで深い谷があったかというと、これは後から知ったことなんですが戦前に「利根川放水路計画」というのがあって、巨大な運河を掘って東京湾まで通そうとしたんですね。
今低い住宅地になっている部分と県立船橋高校の野球グラウンドになっている所が、一部着工されたその名残というわけです。(県船グラウンドは当時の深さを残してます)
この計画は戦争が激しくなったため結局は中止になるんですな。
ススキ野原だった所はやがて畑になり、その後はかなり埋め戻されて住宅地になりました。

あ、また激しく脱線してしまいました!
こんな調子ではちっとも進みませんですね。
我ながら先が思いやられますが(続く)

「私はいかにしてギター修理屋の親爺になったか」その1

最近「ブログ楽しみにしてます」
と、帰り際に小声で仰るお客様が時々居らっしゃるのですよ。
畏れ多いことです。
またありがたいことでもあります。
が、同時にプレッシャーもかかります。
画像がUPできるようになると、今度は逆に画像がないのに日記を書くのが申し訳なくなります。
なんか、中身が薄いみたいで。
で、また間が空いてしまう、と。
悪循環ですね。
なので、今日は画像ナシで書ける物を書きます。
以前に野平工房の野平君から「自伝を書くと注目度が違いますよ」みたいな事を聞いた気がするし。
ちょっと恥ずかしいんですけどね。
でも、これなら少しずつ続けて行けそうな気がします。


私こと伊藤澄は1956年(昭和31年)に千葉県市川市にて出生いたしました。
市川市役所のすぐそばに「八幡の薮知らず」という場所がありますが、そのすぐ近くの産院だったらしいです。
「八幡の薮知らず」知ってますか?
正確には「八幡不知薮」と書くんですか?間違ったらごめんなさい。
ココはすごいですね。
ミステリースポットですよ。
何百年間もの間、立ち入ってはいけない魔のスポットとしてそのままになってるんですよ。
入ったら二度と出られない、あるいは祟りがある、と。
この科学万能の21世紀においても、ですよ!
車がビュンビュン走る国道沿いなのに、いまだにこのわずか20メートル四方の場所だけは手つかずの薮(というか雑木林)になってます。
「昔は広い森だったから、入った人は迷ったかも知れないけどそんなの今は関係ないでしょ?(笑)」という風に勘違いしてる人が、千葉県人でも多いんですが、、、実は違います。
ココは江戸時代からこの広さなんです!
ピンポイントで「入ったらアカン!」という場所、本物のタブーなんです!
今は国道側は小さい神社になってて鎮護されていますが、石の塀越しに覗いても何か得体の知れない妖気を強く感じます。


あ、なんか自伝と無関係になってきました。
すみません。
まあ、脱線も人格の一部ということでお許しください。
次回はちゃんと書きます。(続く)
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