私はいかにしてギター修理屋の親爺になったか その4

私が生まれた1956年(昭和31年)というのは、今考えれば戦後11年しか経ってないわけでして、日本中の人が大変な思いをしてやっとホッと一息ついた、ぐらいの感じの世の中だった…
んですかね?よくわかりませんが。
なにしろ子供だったので(当たり前か)
ただ年下の人と話していて感じるのは昭和40年以前と以降の生まれでは、知ってる「世の中」が全然違うな、という事です。
40年以降の生まれの人は物質的にはほぼ現在と同じような社会に生まれてるので、現在の便利な世の中が当たり前と思ってるんじゃないでしょうか。
まあ、あくまで勘ですけど。

では30年代前半の千葉県船橋市はどんなだったでしょう。
思い出すと色々浮かんできます。
未舗装で雨が降ると水たまりだらけになる道路、あらゆるところにドブ川、ドブ川にはイトミミズ、夏にはヤブ蚊や金バエ銀バエが飛んで嫌だったけど、代わりと言っちゃなんだがカブト虫もオオクワガタもオニヤンマも飛んで来て子供には嬉しかった。
総武線にはまだ蒸気機関車が走っていて、その音と煙の迫力は凄いもんだったです。
線路の北側は大体田んぼでメダカすくいやドジョウを取りに行きました。
今の子は学校にゲーム機を持って来て怒られるが、昔の悪友共はポケットに動物を入れて持って来るのだった。
モグラ/コウモリ/雀の子/カエルにオケラに玉虫…。
アリジゴクを砂の入った缶に入れて持って来た奴はヒーローになりましたね。レアですから。
車はすぐ「エンスト」して路上でボンネット開けてるし、菱形のガラスで出来たバスの方向指示器はガチャンと跳ね上がり、ハンバーガーも自販機ももちろんコンビニもなく、米屋で売ってるプラッシーは夢の飲み物、バヤリースだって憧れだ。
朝は牛乳屋がビンをガチャガチャさせながら自転車で走り、夕方は真鍮のラッパを吹きながら豆腐屋が通る。 ラーメン30円、あんこ玉が10円だったか?
発売されたばかりの「少年サンデー」の表紙はいつも巨人軍の長嶋や横綱大鵬だった気がする。
駅前にはゴザを敷いて土下座している傷痍軍人、民家の壁は板塀か生け垣で水は井戸、便所は汲取り、冷蔵庫はなく風呂は薪で炊く、隣の家にテレビという物がやってきた時は家族で見に行った。
後に我が家にもテレビは来たが相当長い間白黒だったですね。
電話は一家に一台、黒いやつが玄関のところに白いレースを敷いた上に鎮座していたなあ。
子供の遊びは泥んこ遊びに虫取り、三角ベース、ベーゴマ、メンコ、縄跳び、缶蹴り、かくれんぼ、ゲームと言ったって小学校高学年になってから野球盤を買ってもらったくらいかな?
模型工作も良くやった。
竹ヒゴで翼を作ってゴムを巻いて飛ばす飛行機とか、糸車を作ったりとか、プラモデルも作ったな。 男の子は大抵ナイフの1本は持ってました。
そもそも鉛筆はナイフで削るものだったしね。
だから手で何か工夫して作ったり加工したりということはしょっちゅうしていました。
それが後年の職業に繋がった…か、はわかりませんが。
そんな時代。
若い人は漫画「三丁目の夕日」(でしたっけ?)を読んでもらえば大体雰囲気わかるかな?
ああ、なかなか本題に入らない。
年寄りの昔話は延々と続きますよ。
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